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そもそも超短編と名乗っていいのか

 こんばんは、こおりです。
 そもそもの話、「私の書いているものは本当に超短編を名乗っていいのか」という悩みを抱えている昨今です。

 私が参加している『500文字の心臓』、「サイトについて」というページには以下のようにあります。
>独特の読後感を持ったとても短い小説を超短篇と言います。

 500文字の心臓では500文字以内で書かれた文章作品を扱っていて、私がこのブログに載せる「超短編」と銘打った作品も500文字以内のものです。
 「超短篇」と「超短編」という表現の違い、示すものの違い、なんていうのもあったりするのですが、
 そのまえに。
 そもそも。

   「超短編(篇)」とラベルを貼って、伝わるのか。

 そんなことを最近考えます。
(それ以外にも「独特の読後感」など持たないただ短いだけの小説を私が書いていたりごにょごにょ)

 超短編の知名度、どんなもんでしょ?
   知ってる人は知っている。
   知る人ぞ知る。
 そんな雰囲気を感じています。

 「超短編」という名前、見たまま解釈すると「とっても短い(お話?)」といったあたりでしょうか。
 実際、500文字の心臓が定義する、狭義の「超短編(篇)」の枠に収まらないもの、1000文字で超短編と言ったり、小説ではなくすごく短いマンガのこと、映画のことを指したりしているのを広く目にします。

 一応言っておきますけどそういうのに対して「超短編を名乗るな!」と言っているわけではありません。
 狭義の「超短編」がそれらと混同されないために、何か新しく名付けることが必要なんじゃないかな、とか考えているわけです。名付けというか、ブランディング?

 見ただけで中身がどんなものかわかるラベル。
 私はこれから、私の書く超短編のことを「500文字小説」と呼ぼうと思います。

(過去の記事まで「500文字小説」と言葉を入れ替えるのは結構な労力なので放置させてください)

わかっていればより面白い、とは

 こんばんは、こおりです。
 もともと何か記事を書こうとは思っていて、創作文ストックも用意せず週末突入したら、なんだか疲れていたのか2日間ほぼ寝てました(ダメ)。

 さて、掲題。
 これだけ世の中に選択肢が増大しまくっていると、全員に面白い、っていうのはムチャな話だと思います。
 ターゲットを広くしすぎると、それぞれが受けつけないものを排除した結果、誰にも不快感を抱かせないかわりに誰にも芯まで届かないものしか出来上がらないんじゃないかと。……っていうのはどっかで見聞きした言説の受け売りなのですが。

 じゃあターゲットを絞って、そこに受けるものを作ったら、そのごく一部の範囲では盛り上がるのかもしれません。
 ただし。
 そうじゃない人たちは置いてきぼりですね。コアだとかオタク的だとかマニアックだとか、そういう言葉で形容されて、近づき難いものになってしまう。

 ある物事(Aとしましょう)にちょっと関わってAの面白さがわかってきたとき。前述したように、情報が溢れかえった選択肢の多い世の中ですから、Aに触れようとしてもなかなか機会がないものかもしれません。
 そんな中、Aを取り扱ったメディアに出会ったら。
 人間っていうのは「知っていること」に出会うと快感を覚えます。Aを取り扱ってるだけでまずは嬉しいですわな。
 人間っていうのは「知っていること」のみを繰り返されると飽きてきます。ここでAの入門編、既に知っていることのみを扱われたら、嬉しい反面がっかりもしてしまうのかもしれません。
 そのかわり、Aをよく知らない人にとっては「知っていること」の割合が高く、馴染みやすいという面もあるでしょう。

 結局、選択肢が多様化していることが物事の方向をよりマニアックにしてるのかなあ。
 私自身は選択肢の多様化を是としているので、この考え方だと、物事がマニアックになってしまうことは不可避ですね。

 マニアックになっても敷居が高すぎない、これは不可能でしょうか。
 私は、難しくはあるが不可能ではない、と考えます。

 小説や超短編を書く場合。枝葉の部分はマニアックにしても、根底のテーマを最大公約数のようなごくありふれたものにしたら。あるいはその逆に、ありふれた枝葉でマニアックなテーマを扱えば。

 言うは易いもので実際に自分ができるかどうかはまた別問題なのですが、そういう考え方をしていますよ、という表明でした。

再読性と洗練されている文章

 おはようございます、こおりです。久々にコピペじゃない更新。

 私は物事の価値を判断するときに「何度も楽しめる」ということを重要視します。文芸作品に置き換えると「再読性」ですね。本を買って気に入ると、たとえミステリでも何度も読み返しますし、気に入ったフレーズがあればページをめくってそこだけ繰り返し読んだりもします。

 超短編を読むときも、再読性の高い作品に高い評価をつけます。
 具体例を挙げると何度も読み返すことに耐えうる、奥行きのある作品、文章のきれいな作品です。
 それから外れるものにも再読を促されるものはあります。ごく個人的な、思い出や愛着に触れるものが多いかな。

 さて、超短編の再読性。
 私が超短編を気に入っているのは再読が易いというのが理由の一つになるかもしれません。なんといっても文字数が少ないですから、気に入ったフレーズを読もうと思ったらほぼその作品の全体像を同時に読むことになりますからね。

 前に書いたような気がしますが、一読で読者(=私)を引き込むことは、まず前提として大事です。一読したときに「ここ気になる」とか「ここ好き」とか、そういう感情を誘導してもらわないと再読しようとは思いませんから。
 500文字以内というごく短い文字数の中でそういう感情を引き出してくれるだけで、その作品は価値のあるものだと感じます。だからまあ、再読性再読性っていうけど、実際のところは初読が大事ってことになってしまうわけですけれども。

 ワンアイデアに固執した作品は、正直あまり好みではありません。オチのある作品。「へー」「ふーん」で終わることが多いです。
 オチが秀逸であれば(その定義も曖昧ですが)、評価を高める場合もありますが、そういう作品って文章やストーリー運びに気を配られていて、オチ以外のところでも気に入る部分があることが多いです。

 以前に(文芸ではなく論文の)読みやすい文章の書き方10ヶ条、みたいなものをちらっと目にしたのですが、そこには「読みやすい文章は表現の秀でた文章ではなく、繰り返し書き直された文章である」的なことが書いてあって、ああそうだそうだ、と膝を打ったのでした。
 物事は改良を加えていくたびに洗練されていきます。それは文章だけではなく、そこらへんにあふれるツール類でも。まあたまにPCソフトなんかで改悪されることもありますが。それにしたって次のアップデートで、より使いやすいように改良されるわけです。

 そのままの素朴なものが嫌いなわけではないと思います。
 けれどそれが肉体的に感じられるものではなく、文字という頭で一度デジタル処理しなければならないものである以上、いかにスムースに文字列を理解できるか配慮されている、というのは重要なことに思います。

 洗練された文章は、頭にダイレクトにイメージを喚起させるため、好きかそうでないかの判断を読むのと同時に行え、再読を促しやすくなるのではないかと思います。
 あと、読みにくい文章って眺めているだけでも苦痛。

 もちろん、再読性を評価基準の上位に持ってきているのは私の場合であって、そうでない人も多くいるのだろうとは思います。
 私は私の価値判断基準で超短編を評価します。他人に迎合して価値を揺らがせるつもりはありません。そして同時に私の価値基準を他人に強要することもありません。
 他人に強要する気がないからこそ、一度書いておかないといけないな、と思いました。

読み手に補完してもらうこと

 こんばんは、こおりです。

 超短編というのは、それ単体では不完全な作品、だということにしておこう。
 なぜ不完全って、500文字と、あまりにも文字数が少なすぎるから。全てを語りつくすことは他の長い小説に任せてしまおう。
 とはいえ、私自身でさえ、その少ない文字数に全部を詰め込もうとすることもあるので、全部が全部不完全とは言わない。

 短いから、全体から見て一つの単語の比重が大きい。だから、単語一つ選ぶにも細心の注意を払ったほうがいい。
 そして、書かなくても伝わるならできるだけ書かないほうがいいのではないだろうか。つまり、読み手に補完してもらう。

 超短編の世界vol.3が出たときに、アニマソラリスにてタカスギシンタロさん・松本楽士さん・たなかなつみさんへのインタビューが掲載された。
 タカスギさん曰く、
>超短編を「読む」作業は限りなく「書く」作業に近いのです
 つまり、読み手が自主的に作品を補完して、その人なりの作品の奥行きや広がりを認識する、ということだと理解したが、さて。

 読み手に作品を補完してもらうにはどうしたらいいだろうか。

 まずは、読み手が補完するだけの余地を作品に残したほうがいいのかな、と思う。つまり、全部書いてしまわない。まあこれ自体は何度も書いたように、文字数のために結果的にそうなってしまうかな。
 あと、オチを書いてしまったら、はいそこまで、って終わってしまうね。一つのオチにこだわるよりは、いろんな解釈ができたほうがいいんじゃないかな、と思う。というか、私がオチのあるものはショートショートだと認識していて、ショートショートがあまり好きでない、という辺りにも起因しているのだろうけれど。

 次に、全体を曖昧にするんじゃなくて、大事なところではしっかり書き込むことって大事だと思う。しっかりしたイメージを作ってから、そのイメージがどんな風に動き変化するのか、って辺りに気を使ってもらえると、私はそこに面白みを感じるのでありがたい。全部曖昧だったら取っ掛かりがなくて、そのぼんやりさに手を加えようがない気がする。

 さらに、完成された広まっている物事から一部を引っ張ってくること。
 存在する「全体像」をほのめかすことができれば、その分の意味を付加させることができる。これはパロディとかオマージュとか風刺、その辺りになるのかな。

 最後に、たぶんこれが一番大事で一番難しいとおもうけれど、一読で読み手を引き込んでしまうこと。読み手がその作品を進んで味わいたいと思うように仕向けること。
 印象的な文や単語やフレーズを組み込むことで可能になっていくかなあ、とは考える。でも、一人ひとりストライクゾーンは違うものだから、ある一人には興味を持たせることができても別の一人はスルーするっていうこともあるだろう。ここはどんな人に読んでもらいたいのか、で考えていったほうがいいのかもしれないね。

 とまあ、超短編ってただ読むにも労力が要って、まったく知らない人からしたら敷居が高いよねー、と改めて思った次第です。

どんな超短編を読みたいのか

 こんばんは、こおりです。ひらがな表記にしました。
 で、タイトル。主語は私です。つまり、「こおりは読者として、どんな超短編を求めているのか」。

 読みたい超短編。好みの超短編。

 美しいもの! と叫びたくはあるのですが、それってあまりにも抽象的なので、もやもや言葉にならないのを無理矢理言葉にしますけど。
 まずね、文字の並びが美しいこと。漢字やひらがなやカタカナのバランスだとか、リフレインされる表記とか、段落の分け方とか、そんな辺りかな。
 美しい内容ってのもあって、箱庭的(作者の)創造した世界が垣間見られる、とか。
 小さな世界。私の場合は閉じていても構わなくて(あ、でも独りよがりはいやだな)、創られた世界の理屈を見たいなあって。
 細部まで手を抜かず、(おそらく)丁寧に練られた作品は美しさに近似です。

 この前ぼーっとしてるときに思いついたんだけど、感情の動きを描いたものに私は惹かれるっぽいです。これは超短編に限らず、小説とかエッセイとかでも。
 で、超短編って短くて、瞬間を描写するのにすごく向いてると思ってます。感情の動く、その瞬間が描写してあるといいなあって思います。それが怒りでも幸福でも。感情を読みたい。衝動を読みたい。

 あとね、あとね。読み終わってふっと寂しくなるような作品をわりと好んでいる気がするね。喪失の痛みは苦手なのに、気付くと作品の痛みを噛み締めて、自分の中に取り込もうとしちゃってるね。なんでだろうね。

 んー、じゃあ好きなモチーフを考えてみよう。
 さっきも挙げたけれど、何かがなくなったり誰かがいなくなったりするお話。
 何かを食べるお話。
 童話ちっくなやわらかいお話も惹かれるなあ。
 ただし、モチーフが好みでも好きになれない作品ってのはもちろんあって、だいたいは「美しくないなあ」って感じる作品で、そういうのはどちらかと言えば苦手です。

 完璧に美しいものは、虚無感を私に与えるようです。
 虚無感っていうか、「あーこれが書かれているからもう他はどうでもいいやー」っていう脱力。完璧な作品の前では呆けてしまいますね。

発展を見定めたときの問題点

 こんにちは、氷里です。

 超短編にの立ち位置に関する熱いやりとりを見聞きしたんですが、創作論ではなく広報論みたいなところだったのと、それをきっかけに言いたいことを書くので、考察になるかしらどうかしら。
 その「熱いやりとり」を、私は「価値観の相違をどう処理していくか」だと感じたのですが、またそれも機会があればということで。

 超短編界って「ゆるい」です。「中心人物」「フロント」に当たる人がほとんど表に出てきません。
 ムーブメントの中心サイト「500文字の心臓」でさえ、古参といえる人がいるとはいえ、参加者の善意というかボランティア精神というかそういうもので動いているように見えます。いや、管理人さんはちゃんと面倒臭い(であろう)サイト更新とか選評集計とかのお仕事してくれていますけれど、表にはほとんど出てこない。

 私が眺めはじめた頃からそんな感じで、私は最初、すごく戸惑いました。
 自分がどこまでやっていいのか。どんなことをしたらいけないのか。どこを目指せばいいのか。

 非常に民主主義的で、理性的なシステムなんだと思います。
 反面、放置に過ぎていやしないか、なんてことを思うことも多々あります。
 どんなときに? とくに新規の方が入ってきたときです。

 ここで私の基盤というか立ち位置(?)を表明しておかないといけないと思います。
 私は中高とマイナースポーツをやっていたのでその頃から後進を指導するということを経験し、高校生のときはコーチング論の本なんかもいくらか読んできました。主に実践系の。一流の理論を展開されても私には扱いきれませんでしたので。あと、途中で脱落しましたが、教職課程を齧っています。教育心理学あたりは好成績で通りました。
 ここで気をつけてもらいたいのは、コーチングにしろ教職にしろ、「通過しなければならないこと」をいかに高レベルで行わせるか、という視点であるところです。
 つまり、「無関心層」や「アンチ」は私の方法では補えません。
 私が持っている視点は、目標を持った人をいかにフォローしていくか、という視点です。

 新規の方が入ってきたとき。これって発展を目指す(少なくとも中心の方々はそう公表している)超短編界にはチャンスだと思うんです。
 ところが、人が入ってきても、基本的に放置されてしまう。雰囲気だけから「読み取」って「判断」する(そして興味がわけばそれを「フィードバック」させる)ところまで、何もかもがはじめての人に最初から求められています。
 その人は「読み取」って「判断」まではするかもしれない。ただし、その判断が「ここってつまんない」である可能性が低くありません。
 そして「つまんない」と一度判断されてしまった超短編は、もう振り向いてもらえないことでしょう。例外がないとはいいきりませんけど。

 新しいことを始めようとする人がいるとき、ここはまず基礎を固めさせなければなりません。基礎にはいろいろありますけれど、超短編の場合は「超短編とは何か」みたいなところかな。
 そして、書くにしろ読むにしろ、それによって「快い」とか「達成感」とか、モチベーションを高めさせる働きかけが必要だと思います。コミュニケーションを取る、というのもモチベーションを高めさせる一つの方法だと思います。偏見ですけど、ネットでカキコミするような人の大半は大なり小なりかまってちゃんで自分の話を聞いてほしい人だと思っています。

 と、ここまで書いて少し気付いた。超短編界隈は周辺とのコミュニケーションが淡白ですね。常連同士のやりとりはわりと突っ込んだ話もしますし、仲良さげにみえますけれど。アンテナも短期間で更新している人あんまりいないし。そうか、そこだ。

 ところで、私がこういう話をするときって、書きながら自分の頭の中を整理していっているので、脱線するし最初と最後で論点ずれていること多々ですけど、仕様なのでご勘弁ください。

 たとえば、私は自分の名前をあだ名やニックネームで呼ばれることをあまり好みません。ハンドルネームというやつは自分で付けたものですし、名前まで入れてアイデンティティの一部です。人によってはそれをプライドが高いとかいうのかもしれませんけど。
 仲間内だけニックネームで呼び合って、外の人には会話さえ淡白。これは感じ悪いですね。外からふらりと入ってきたら、「なんだよ、仲間内だけで楽しくやってろよ!」と、私なら怒るかもしれません。
 ちなみに私が怒らなかったというか怒る機会を失ったのは、最初に外で仲良くしてくれる人を見つけて、その人づてに超短編コミュニティに参加したからです。

 いい加減にまとめに入りましょうか。(疲れてきた)
1)新規の方が入ってきたときのフォローが足りない気がする。
2)興味を持った人が楽しい思いをしないと次回参加等には結びつかないと思う。
3)「楽しい思い」には他の参加者とのやりとりも含まれるんじゃないかなあ。
4)フロントが出てきて「中心の人」と関わってる感じがあるとより「楽しい思い」になるんじゃないなあ。
 くらいでしょうか。最初に出した話はどこに行った、とかは言っちゃダメよ。

 まあでも難しい問題ですよね、新規の方のフォロー。
 参加者のほとんどが余暇で超短編に関わっているわけですし、本業が忙しかったらサイト参加自体も難しい。フロントはたまにでいいから出てきて欲しいですけど。
 さらに、初対面の人と会話するのってなんか緊張しますもんね。

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超短編を定義してみる

 こんにちは、氷里です。

 超短編の話をしようと思って作ったブログですが、それにはまず、「超短編とは何か」っていうのを、ゆる~くでも定義しておかないとお話を進められないなあ、と思ったので書いてみます。
 私が言う「超短編」とは、500文字の心臓(http://microrrelato.net/)を中心としたムーブメントを指します。

独特の読後感を持ったとても短い小説を超短篇と言います。
 上記サイトからの引用ですが、短ければいいってわけでもないようです。もちろん短いことも大事です。このサイトでは基本的に500文字以内の作品を扱っていますし、そこでの活動を中心にしてきた私が書くものも大抵500文字以内の作品です。

 独特の読後感、というものはどういうものなのでしょうか。
 よく挙げられるのは「余韻」という言葉です。また「背後を連想させる」というのもよく目にします。

 私が思うに、超短編とは短すぎて全てを語れないからそれを読み手に補完してもらおうとする文芸手法、ではないでしょうか。小説の形態を取ってはいますが、詩や俳句などのほうが近親の文芸手法のように感じられます。
 私は文系科目が苦手だったので(じゃあなんで書き物なんかしてるんだ、というツッコミはやめてね☆)、ちゃんと文学を知りません。けれど、6年くらいこのサイトに入り浸って、「超短編とはなんだろう」とすこぉし深めに考えたくなったのでした。

 ツイッターがこれだけ流行り、ツイノベなんてものも溢れています。ツイノベを超短編と言い切るには、私はちょっと違和感を覚えるのです。
 なぜなら、私は上で引用した文面に惹かれて、超短編を書き続けているからです。
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Author:こおり
モノカキ時は「氷砂糖」の筆名使用。
息をしたり、寝たり、食べたり、音楽を聴いたり、500文字小説を書いたりしています。
鉄の街出身、晩秋生まれの嘘詠い。

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